〜 感動したすばらしい良記事 〜
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喪われた街で考えた、プログラミングという武器
日曜日の午前0時、トランク一杯に毛布やら食料やらを積んで、被災地に行った。
親戚が多く住む、見慣れた街。
そこで見た変わり果てた街の姿に、僕は言葉を失った。
大自然の猛威という言葉はあまりに簡単で、簡単だから口にできない。
この光景を現実に目の当たりにして、僕は涙よりもどんどん心が冷たく冷めていくのを感じた。
ホラー映画を見て、「あれは作り物だ、CGだ」と自分に言い聞かせるように。
何度も何度も言い聞かせた。
しかしそれはどこまでも、徹底的に、現実だった。
無慈悲な海はあまりにも多くのものを飲み込んだ。
誰が悪いというわけでもない。
国道を挟んで、海側が壊滅し、山側は残った。
津波の被害を免れた山村も多くは屋根瓦が落ち、ビニールシートで補強していた。
ときどき、開けた場所では、しばしば津波は国道を乗り越えた。
線路は壊滅し、車は流された。
学校や職場にも行くことができなくなったのだそうだ。
自分が生き残ったのは、単に運だ。
生き残った人はそう言った。
この極限状況下で、生まれたばかりの我が子を見殺しにするような選択を迫られた人も居たそうだ。
こういう場面を間近に見て、僕は気がおかしくなるのではないかと恐れていた。
けれども現実は逆だった。
逆に僕はどんどんどんどん、冷静になっていくのだった。
心が熱を失い、しだいに冷たく、ひんやりしていくのだった。
あまりに想像を絶する極限の状況に陥ると、人の心は防衛本能を発揮して心を閉ざしていくのだそうだ。
その防衛機構が、僕に働いたのかもしれない。
いけどもいけども廃墟だった。
見覚えのある景色は、どこにも無かった。
親類も含め、被災者となった人たちは、おしなべてみな、元気そうだった。
というよりも、カラ元気でも出さなければ、やってられない、といった感じだった。
ここでは誰も原発の影響を恐れていなかった。
家が亡くなり、職場が消滅してしまった人たちにとっては、原発の影響など、何十年も先のことだ。
それよりも今、目の前の状況からどう立ち直るかだ。
あちこちのコンビニやレストランに「がんばろう東北」とか、「がんばろう福島」とか書かれていた。
この「がんばろう」は、テレビでタレントが言ってる「がんばろう」とは、別の言葉に聞こえる。
仙台高専の名取キャンパスにも行ってみた。
被災者となった学生たちは交通手段を失い、いまは寮に住んでいるという。
新幹線すら、まだ動いていない。
高速道路は封鎖され、鉄道は線路ごとなくなってしまっている。
ここはいま、本州で一番遠い街になってしまった。
念のためにと携行したガイガーカウンタであちこちの放射能を測ってみた。
東京よりは多少高いが、いずれも1μシーベルト/時未満で、恐れることのない数値に収まっていた。
「出荷制限されたって地元のモノ食べるしかねえよ」
ある人はそう言った。
僕も地元でとれた米で炊いたご飯と、シャケと、卵で遅い朝ご飯を食べた。
このあたりは、食べ物には困っていないようだ。
停電もしていないらしい。
欲しいものはなにかあるか、聞いてみると、仕事だという。
赤十字が支払う義援金は、家がなくなった一世帯あたり35万円、志望者一人当たり35万円だそうだ。これとは別に国からの補助が300万円ほど出る。
「中途半端な金なんかあっても使いようがないよ」
いまさらもともと住んでいた場所にもう一度家を建てようなんて気持ちには、到底なれない、と彼は言った。
「何十年もかけて払って来た住宅ローンが、ぜんぶ一瞬だもんな」
かといってこの地を出て行く気もないのだという。
車すらもない。
田舎にとって車は全ての人々の足として重要な意味を持っている。
その車も、多くは流されてしまってみつからない。
「まだ買って半年だったのに」
収入もなく、ローンだけが残った。
この現実を前にした時、東北を復興させよう、なんて言葉を僕は言えなくなった。
そんな簡単なものではないのだ。
少なくとも津波で流れてしまったこの街に、人が帰ってくることは、もうないのだ。
福島県は、原発の半径30キロ周囲を喪い、沿岸部をたっぷり5キロは喪い(津波は5キロ離れた場所にまで及んだそうだ)、そのうえでなお、なにをどう復興させればいいのか。
街はもうもとには戻らない。
津波の恐ろしさを知った今、沿岸部に家を建てたがる人はもう居ない。
この膨大ながれきを処分し、整地するのだって途方も無い金がかかるだろう。
未曾有の災害。
しかもこの災害はまだ始まったばかりなのだ。
本当の戦いはこれから始まる。
その戦いは、彼等だけのものではない。我々みんなの戦いなのだ。
そのとき僕はなにができるだろうか。
僕はプログラマーだ。
そして、教育者の端くれだ。
僕は日本の私企業のルーツは、私塾にあると思っている。会社の価値を根本的に突き詰めていくと、それは教化と実践に収斂すると思うのだ。
起業家は教育者でなければならないと思っている。
だから数々の学校で教壇に立ったし、講演の依頼があれば原則として断らないことにしている。
九州大学の講師の件は昨年は断ってしまったが、それは僕が教育者としてできる役目は九大に関しては終わった、と感じたからだ。
教養は、経済戦争における最も汎用的な武器である。
それは時には危険から身を守り、未来の出来事を察知し、目的を達成するため最大限に活用される。
教養を武器としなければ、企業人は成り立たない。なぜならこちらが使わなくても相手が使ってくるからだ。
教養を持たずして自由市場に打って出るのは、機関銃を持った相手に素手で殴り掛かるに等しい。
僕が教育者として、そしてプログラマーとして、希望を喪った人々に与えることのできるのは、もちろんプログラミングという武器だ。
基本的に、プログラミングはスキルではなくアートだ。心の内なる叫びを表現する極めて神聖な行為だ。
少なくとも僕はそう信じている。
しかし、このアートは、音楽や絵画よりもずっと習得が簡単で、しかもそれで食っていく人口が最も多いアートだ。
プログラミングを覚えて損をしたという人を未だに知らない。
向いてなかった、とか、楽しめなかった、という人は居ても、損をした、という人はまず居ない。
高校で微分積分をやって役に立っていないという人は多く見たが、親にプログラミングをやらされて人生の時間を無駄にした、という人を僕は知らない。
音楽も絵画も、素質がいくらあっても、気の遠くなるような努力をしなければそれで稼ぐようにはなれない。
しかしプログラミングは、それほど素質がなくても、気の遠くなるような努力をしなくても、真面目にやりさえすれば、手軽に習得ができて、食っていける。
なおかつ、万が一、なにかすごい素質が自分の中に眠っていたとしたら、被災地の四畳半からでも世界を変えることができる。
そういう溢れんばかりの可能性を秘めている。
それがプログラミングなんだ。
今週末、東京で実験的に開催するイベントに、仙台からの参加者が数人来るのだと言う。
しかし今回、実際に仙台に行ってみて、改めてその困難さを実感した。
新幹線もなく、在来線もなく、高速道路さえも分断され、国道も多くは復旧工事で機能を喪っているなかで、敢えて東京までやってくることがどれほど困難か、僕は肌で感じた。
そういうわけだから、本来、予算の問題があって難しいとは思っていたけれども、9leap Game Programming Campを仙台で来月開催しようと思う。
都内のイベントでは会場の都合で30人がギリギリだが、仙台のイベントは人数が多くなるようなら、で
きるだけ広い会場を探そうじゃないか。
残念ながら僕は孫さんほどの大金は持っていない。だからお金で貢献できるのはごくごくわずかだ。
けれどもプログラミングという武器は、それを使いこなせばいずれ100億の富に匹敵するかもしれない力を秘めていると僕は思う。
場所や日程は未定だが、必ず開催する。
そこで優れた素質を持った人と出会えたなら、できるだけ援助しよう。
有力なスポンサーを紹介し、僕自身もできるだけのことはしよう。
もちろんそれは東北に限らない。
もはや東日本震災によって引き起こされた経済的・精神的ダメージは、東北地方だけのものではない。
これは僕たちみんなの戦いだ。
やれる人がやれるだけのことを精一杯やるしかない。
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