Category: Essay

ネットワーク

 最近、あらためてインターネットがもたらした我々の生活や文化について考えさせられる。

 一昔前に携帯やパソコンが庶民にも一般的になってきた頃、はまっていたことがあったが、ここ何年かはとにかくデジタルなものからなるべく遠ざかるようにしてきた。利便性は高まったけど、新たに我々の生活にストレスをもたらしていると。
 でも、最近は違う。過去の失敗や経験から携帯やパソコンを通じての人とのコミュニケーションのとりかたのコツをつかんできている。そう、誰もが。

 人が進化していく上で、コミュニケーションのとり方に変化が現れただけで、結局時代は変わっても人が求めているのはいつの時代も同じだと思う。
 だから、インターネットという手段を使ってもっともっと世界を広げ変えて生きたい。もっともっと活用して人生をより豊かにしなければならない。経験と知性や知識をもって。理論や計算を卓越して、より豊かな想像力&創造力を経てより崇高なものにしたい。

 まだまだ、甘ったれですべてにおいて浅い自分。こんな文章を書いている自分を数年後、笑い飛ばしていたい。若かったと・・・。
 かといって、あらゆるものを先回りしてこんなもんだと勝手に決めつけないで、やっぱり自分の目で確かめていたい。人間は二通りの人間しかいない。役目を与える人間、与えられる人間。すごく欲しいものがあって慎重に下調べしてからでないと動かない人間、まず自分の足で動いて自分の目でみて確かめてみる人間。
 もっともっとアグレッシブに、活発な行動力で圧倒したい。
 近頃の充電期間を経て、また動き出さなきゃな。

 生きていく中で、バイオリズムがあるとしてその時期をそれなりに噛み締めながら生きていくとして、暮らしの中に仕事や趣味があるんであって、仕事や趣味の中に暮らしがあるわけではないのだ。あくまでも、暮らしを豊かにするための手段なのだ。その他のことは。

 人は、関係するために生きるのではなく、生きるために時々関係していくのだから。

 苦しんで苦しんであがいてもがいて、決断し執着していたものを手放したとき、人は本当に出会うべくして出会うのだから。

さくら舞い散る

 4月9日、さくら舞い散る中、なんとも儚げな景色を眺めながら、2005草野球シーズンインした。


 草野球の内容は今回は書くまでもなくヒドイ状況だったからとばす・・・

 草野球のあと小金井公園で花見をし大成功に終わった。みごとにさくら舞い散った。なんてすばらしい日本である。
 本当にきれいなものは束の間である。束の間だからきれいなのかもしれないが。さくらが舞い散るのをみて純粋に綺麗だとおもえた気持ちを忘れずにいたいものである。
 その気持ちを言葉に変えなければ人に対してなんら存在しないものとなる。自分だけの小さな世界で終わるのはもうよそう。こころなんてそんな簡単に開けるものではない。誰もがこころに傷を負い、無意識に自己防衛してしまうのは明らかであって。無理に勇気をだしてぶつかる必要はない。若い頃はそれでよかったと今は思う。目の前に壁が現れたら、その壁の周辺をウロウロしていればいい。ウロウロし続けるってことは余程の情熱がなければできない。チャンスは世に溢れている。チャンスは一度きりじゃない。
 魂から湧き出てきたようなあのエネルギーを忘れずに。もう一回り成長しよう。