Category: Life

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今日の昼過ぎ、急激に腹が痛くなった。青白い形相にしかめっ面、下半身はすり足でトイレに向い、たどり着いたオアシスで、おりゃ!
 そういえば、2・3日ぶりのうんだった。だから、この世のものとは思えないほど長い代物が窮屈そうにぷかぷかと水に浮かんでいた。
白い紙状の巻物に手をかけようとしたら、張り紙が貼ってあった。
「つまりやすいので流しながらお願いします」
・・・・・・・・えっ
おそいっつーの

 中学生の頃、修学旅行で北海道に行ったときのエピソードだ。知らない土地にいったり、普段と違う環境で何日か生活すると人間って自然とおつうじの調子が悪くなる。三日目あたり、5・6人部屋で友達と会話を楽しんでいると友達のひとりがトイレからなかなか出てこない。心配して声をかけてみると、
「いや~、太すぎて流れね~んだよ」

なるほど!その時、ひらめいてしまった。

「何事もインプットとアウトプットのバランスが重要だ」

 我々は、いつも無意識のうちにバランス感覚を持ち合わせて日々暮らしている。当たり前のことなのだが、意外と意識していなかった。

 昔、手に負えないほど私を困らせる女がいた。彼女からアウトプットされたエネルギーは、私の中にインプットされインプットされ、もうパンク寸前だった。私もちゃんとアウトプットしてバランスを保っていればよかったのだろうが、若かりしあの頃はなぜか我慢し続けてしまっていた。やがて、自由奔放、思いやりのかけらも見当たらないと感じた彼女に対してのストレスは極限に達し、まるで中学の同級生のうんこのように太く長いものとしてアウトプットされてしまったのだ。溜まりに溜まった腸の中のガスを、大気へと放出するとき勢い余って身まで出てしまう時のように、意図しないよけいな言葉まで発してしまい彼女を傷つけてしまった・・・。
 若かりしあの頃は、それが彼女の精一杯の愛情表現であってコミュニケーションを取ろうとしていただけなのに、そのことを半分は理解していてもさほど免疫ができていない私にとっては、苦痛にしか感じられなかった。
 
 日本では、「男はだまって・・・」っていう言葉があるとおり、その頃の私もどちらかというとそちらのタイプであった。それに対し、彼女のほうといえばどちらかというと現代風潮の煽りを受け、アメリカナイズされていたタイプの人間だった。欧米文化ではとにかく討論に討論を重ねる。そこから本音や真理を見い出し、より良いものを生み出していく。カフェなんかで欧米人カップルをみていれば一目瞭然、白熱した論議がオーバーリアクション笑で常時行われている。
 集団主義な日本男児と個人主義な欧米風女性とでは、あまりにも思考や哲学にギャップがあった。到底、わかりあえることなんてほとんどなく、バランスが悪すぎだ。この日常を生き抜くにはあまりにも社会性にかけてしまう二人であった。
 だが、わかりあえないと嫌いは別で、お互いの価値観・ギャップを埋めるべく強い磁波によってまた引き合う。思えば、わかりあえないことを確認するためにぶつかっていたように思う。お互い素直になれないから、ぶつかりあうことでせめてものコミュニケーションをとっていた。この女から発せられるぶつかることでのコミュニケーションのとり方に慣れ理解するのに、思えば結構な時間がかかってしまった。今は、冷静にあの頃の事を分析できるが、当時あまりにも突拍子のない言動をする彼女は、私にとって強烈な「違和」として今でも脳裏に焼き付いている。
 この今までの価値観や哲学を180度、裏切られるようなこと経て人は成長する。育った環境の違いによる「違和」をお互い感じ、ギャップを埋めようと努力した日々は何時にも変えられないかけがえのないものとして、これからの私の暮らしに影響を与えていくのだろう。

 あの頃、MacからWindowsへデータを送るかのように、彼女からアウトプットされた不対応データが私の中にインプットされ続け、ハードディスクに収まりきれなくなる寸前、CPUが処理し損ねて大量のエラーログをはき、ハードディスクがパンクしシステムダウンしてしまった。

 システムダウンしてしまったコンピュータはもう修復できない。
 がしかし、OSは再開発できる。
 私はそれ以来、新しいOS開発の研究に日々を費やし過ごしている。
 バージョンアップされたOSを発売する日は訪れるのであろうか。
 新しいOSに見合うだけの、スペック(CPU/メモリ/HDD)を持ち合わせ続けていくということが、これからの私の生きる課題である。

衝動的行動 ~ 一心不乱 ~ その一

「お前、気は承知か!?大丈夫か?良い精神科医紹介しようか? 」
 って思われるような行動をしてみた・・・・・。たまにはそんな無意味で無謀で無駄なことをするのがやけに新鮮に感じられ思い立った。そんな無意味な事にこそいままで気付いてなかった発見があるんじゃないか、そんな思考のトリックにかかった。アー意味わかんねー、うまく伝わんねーだろうなたぶん。
 
 毎日毎日、ITな仕事つまり理屈や理論ばっかり(左脳)に頭をつかってると、なんてつまらない世界なんだろうって思う。もちろん生活していくには必要な訳だけど。だから、音楽なんかを聞いて想像力をかきたてる。ボーっと寝そべって音楽を聴きながら考え事をする。

 誰かの呼ぶ声がする。胸騒ぎがする。また誰かの呼ぶ声がする、今度は叫び声にも近い声。誰かが僕にテレパシーを送っている。そしてまたテレパシーを受信する。

 人間は太古の昔、テレパシーを使えたという。進化していく過程で言葉を使うようになりテレパシーする能力はその必要性をなくしたのだ。現在でも動物の中にはまだその能力を持っている動物もいるだろう。
 でも人間は、時々思い出す。その能力を。

 
 気が付くと、羽田空港第2ターミナルビル。ただ、呼ぶ声につられ脚が動く。空港は土曜の昼間だっていうのに足早に歩く人の声がかすかに聞こえるだけで、やけに静かだ。

 おいおい、札幌まで当日チケット買っていくらかかると思ってんだ。タケ―ぞ!はやく正気になって都内に戻ってジムにでも行こうぜ。理屈っぽい自分が語りかける。
 それとは裏腹に、今日何度目だろうテレパシーが届く。そして、受信したテレパシーは感情へと形を変えた。言葉にならないこの想いは何のためあるの?胸の奥にあったしこりが顔をだす。なんでこんな感情が存在するの?もう残ってたってしょうがないじゃない。意味ないよ。誰かがいってた言葉が駆け巡る、種の保存のための本能なの?種を保存できないDNAの叫びが声を荒げている。

 理屈っぽい自分と種の保存のためのDNAの闘いはDNAが勝り、昼過ぎから続いた死闘は一旦幕を閉じ、7月30日(土)20時過ぎ肉体を新千歳空港へと運ばせた。

衝動的行動 ~ 一心不乱 ~ その二

 それからどれくらい歩いたんだろう。半ば放心状態のまま、ただ脚だけが動いている。
 外はJR札幌駅南口、ヒンヤリとした空気が体を軽くした。脳裏には5・6年も前の情景・記憶が蘇生している。道行く人は、東京に比べどこか透きとおった瞳をしていて濁りがない。かといって純粋に見えるかといえばなにか違うような気もするが、顔から幸が溢れている。久しぶりに訪れた場所だからそう見えたのか、本当にそうなのかはわからないが、少なくとも街を漂う空気が透きとおっている。土曜の夜も手伝って街には若者達があふれ、エネルギーを放出している。東京と同じようにひとり言をいいながら今にも発狂しそうな中年男性もいたがどこか顔に幸がある。

 自然が人を創造している。

 こう言ったら道民の人々からお叱りをうけるかもしれないが、本州(内地)で生まれた私からすれば、北海道ってほんとに不思議なところだ。とくに道東は独特の雰囲気がある。気候や大地がそうさせているのかもしれないが、ほんとに神秘的だ。わたしは、そこで多感な19~22までの4年間過ごした。
 道央から道東、本州から道東、ただ移動するだけで人間性や人格がいつのまにか変わっている。どう表現したらいいんだろう。「何言ってんだかあやしい奴」と思われてもしょうがないが、そう感じている人または無意識に変わっている自分がいることを自覚しているひとは、まぎれもなくこのリアルに存在する。感じてることはリアルそのものだ。

 道央や道東には云わずと知れた少数民族アイヌ・コタンの人々が今もなお、その知恵を受け継いで生活している。そのなかのある人の言葉である。

 「人間の義務はね、万物の霊長としてすべての生き物のために祈ることなんだよ。それが、天と地の間に垂直に立つことのできる人間の役目だ。祈り、すべての生命の魂を天に送ることが人間の義務なんだ。神はそのために人間を守ってくれるんだよ。」
 
 戦後、高度経済成長を終え、バブルは崩壊し、平成の大不況、2005年現在景気は回復傾向といわれている。日本には物が溢れ、国は莫大な借金を抱えている。少子化の波は止められず、国の人口は初めてはっきりと数字にあらわれ減少している。人類の歴史の中で人口が減って文明が進化した歴史は未だかつて一度もない。
 これからは、心の時代が到来するといわれる。天と地、自然を感じ祈る。人間も自然の中の一部なんだ。確かなものなんてない。でも、こうして泣いたり笑ったりして生きている。天と地、自然を意識し魂を込める。遥かなる広大な台地の上でそんなことを考えていると、泣けてくる。何かを思い出したわけでもなく、悲しいわけでもないのに、ただ泣けてくる。
 
 周りは、信号待ちで溢れかえる若者達。真夏にしては、涼しい風がひと吹き交差点をひた走る。見上げると光り輝く小さな満月が、泣いている。